私で在り続けるということ

えー、インフォメーションにも書いておりますが、こちらでも改めて。

あけまして、おめでとうございます。
本年も、宜しくお願いいたします。

さて、今年最初の記事は、ネームカードに書いている言葉・・・「私は私で在り続ける」について。



――――――――――――――――――――――――――――――

「私」とは何だろう、とか、そういう難しい話ではありません。
単に、一瞬一瞬の決断に最善を尽くそうという、ただそれだけの「決意」です。

ここからが難しいお話。

「在る」ということは、結果であり、決定されたものでもあります。
つまり、混沌やら可能性やら、まあ、どう表現してもいいのですが・・・何ものでもないものが、
何ものかに定まったとき・・・それこそがまさに「在る」ということです。
何ものでもないものは、まさに何ものでもないゆえに「全て」であり、かつ「在る」状態のものでも
ないので「無」でもあります。そこに方向性(意志)がもたらされることで、「全て」であるものは、
その方向性によって収束し、あるいは無駄な部分を削ぎ落とされて、1である何かとなります。

私たちは常に何かを選択し、その結果として行動(言動)が現れます。
意識してもしなくても、私たちは「~である」と一瞬一瞬宣言しながら生きているようなものです。
「~である」と定義したその瞬間にはもう死んでいて、何ものでもない可能性の大海に回帰して、
しかし選択が行われたその瞬間に、私たちは蘇ります。

そんなサイクルの中で、私(自分)でありたいと願うのならば・・・「ありうべき私」という方向性を、
できる限り一瞬一瞬の選択に反映させなければならないはずです。
言い換えるなら・・・「これが私である」という選択肢を選び続けるということです。
逆に、選んだ選択肢を以って「これが今の私なんだ」と自覚してもいいでしょう。
(それに納得できるかどうかは別の問題ですが)

こうありたいと思う「私」で在り続けたい。
だから私は、私で在り続けよう、と思う(意志する)のです。

もちろん、後悔する選択肢を取らねばならないこともあるでしょう。
でも少なくとも、後悔することを意識していれば、それは逆説的に「そうありたい自分」を再確認
するための糧ともなりえます。あるいは、どうなるか分からない選択肢であっても、結果が出る
ことで、何が「そうありたい自分」に最も近いのかを悟ることだって、できるはずです。
そんなプロセスを経て「ありうべき私」に近づき、そして、それを生きている世界に具現化できる
広さと強さが高まったとき、人は初めて、真の「自分」を得ることができるのだと思います。
ただ、その「ありうべき私」もまた、成長・変化によってひとつところに留まっているわけでもなく、
それもまた常に探求して掴んでいかねばならないものでしょう。
しかし、それでも変わらないものがあるならば、それこそが自分の「魂」なのかもしれません。
[PR]

by lana_ro | 2007-01-01 18:05 | 一般(雑記)  

<< 帰宅 故郷へ >>